柴田多恵
「そよかぜのように街に出よう」より転載
戻る

私の中で「キンコンカン」と鐘が鳴る。あっちに「キンコン」こっちに「カンコン」私の心の中の鐘の響。耳をすませば、ほら、聞こえる。
この四月から、阪急電鉄はすべての座席を、お年寄りや障害者、妊娠している女性や乳児連れの人の「優先座席」にすることをはじめたという。これを聞いて私は、もともと優先座席を限定すること自体がおかしいのではと気付いた。弱い立場の人は、いつでも優先されるべきだ。わざわざ優先座席を設けるようになったということは、それだけ世の中にはやさしい人が少なくて、弱い立場の人が苦労していたということを物語っているわけだと。そう思い当たったとき、今まで「優先座席」をありがたがっていて損したなと感じた。
障害者の就職の際の「雇用率」。昨年、1.6%から1,8%にアップした。たくさんの人が就職できるようになったと、これも単純に喜んでいていいのかなと気付いた。特定求職者の枠が広がったおかげで、障害者の就労は、ある程度すすんだかもしれない。けれど良く考えてみると、この「枠」さらには「助成金」というメリットがなければ「障害者は雇ってもらえませんよ」という厳しい現実が、はっきり示されているともいえる。雇用率が上がったと喜んでいるだけでは情けない。

 私は二才の時にポリオにかかり、左足が不自由だ。でも私の障害はいたって軽く、小学校以来ずっと普通校に通った。手すりのない階段でも足を交互に動かして上がれるから、日常生活ではほとんど支障がなかった。でも、かけっこはダントツに遅かった。体育の時間には、健常者との差がはっきり見えた。まわりはすべて健常者だったから、私はとても重い障害をもっていると痛感させられていた。それなのに、友人たちは常々「あなたが障害をもっていると意識したことはないわ。特別に思ったこともないわ」と言ってくれた。やさしさから出た言葉であったろうけど、この言葉のおかげで、ダントツに遅い私の足は、友人たちにとっても、私自身にとってさえも、いつも宙に浮いた存在になってしまった気がする。

「全席を優先座席にしました」「障害者の雇用率がアップしました」といって単純に喜んばかりはいられない。「あなたは特別ではないわよ」などといわれて、自分で自分の本質をごまかしてしまってはダメ。表面的な出来事の裏にある、障害者の実態や、自分自身の真実をしっかり見据えていかなくては。

 とはいうものの、私は「うーん、健常者もよくここまで分かるようになってくれたものだな」とも思っている。「譲りあいは大切なんですよ」と阪急電鉄は、声を大にして言ってくれたわけだし、雇用率をあげて「障害者もたくさん雇うべきなんだ」と社会は思ってくれているわけだし、「あなたとは一緒よ」と友達は親しみを示してくれているわけだし。ここは、にこっと笑って「ありがとう」と礼を返すぐらいの寛容さを持ち合わせていてもいいかなと思う。長年、健常者の中にいて感じるのは、健常者も、親しい障害者が周りにいなければ、やはり障害者の気持ちはわかりにくいのではないだろうかということだ。下手に声をかけると失言になり、責められるような気がして、ここは見て見ぬふりをしておこうということも多いのでなかろうか。だとすれば、障害者の側から、ほほえみかけて「ありがとう」と口に出すほうが、結局は障害者自身のためになるにちがいない。

 健常者の私の友人が、ある障害者の講演会に行った時のこと、講演者は自分の体験をこだわりなく、ユーモアもまじえて楽しく話したという。友人は「負い目を感じずにすんで、ほっとした」と話してくれた。これを聞いたとき、なるほどと納得した。やさしい健常者は、障害者の味わっている不便さに対して、自分たちが不便でない分、申し訳ないなあと感じているのだ。それが彼女のいう「負い目」なのだろう。昔から、私が足の不自由なことで味わう不便さを口にすると、皆とても辛そうな顔をしたものだ。理解はしていても、肉体的にはどうしても、同じ立場には立ってあげられないという「負い目」だったのかもしれない。お互い、そんなつらく、気まずい「負い目」を感じないですむ関係にならなくてはと思う。 

 軽度の障害であったため、私は健常者の中でずっと生きてきた。日常的には、障害をほとんどまわりに意識させることなく。しかし、障害者であるという自分自身の意識は片時もなくしたことはない。なろうと思えばなりすませる健常者、でも、だからといって足の不自由さは消えるわけではない、物心ついたときからの障害者。私の心の中はいつも、あっちへいったり、こっちへいったり。「キンコンカン」と鐘を鳴らしている。「キンキンコン。コンコンカン」響きの音色もさまざまで、「この響き、美しくない」と言われそう。けっこうしんどい「キンコンカン」ずっと私の心の中で鳴らしてきた「キンコンカン」勇気を持って、今高らかに鳴らします。

 「ふんふん」というお返事、「なーにいってんねん」というお叱り、待っています。

戻る