柴田 多恵
「そよかぜのように街に出よう」より転載
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デイサービスの施設長になって一年。いろいろなことがあったが、最近つらい経験をした。こういう仕事をしていれば、絶対出くわすであろう、当然といえば当然の事なのに、新米施設長の私にとっては、全く「想定外」のことだったのだ。何かというと、利用者の方との永遠の別れである。それも三回も立て続けに。 元気で、通っていらっしゃったのに、ちょっとしたことで入院となり、いかがですかとお見舞いに伺い、そろそろまた元気な顔を見せてくださるころかな・・・と思って待っていたら、ある日突然電話・・・・。「主人・・・・亡くなりました」と。 「ああ」と言ったきり、なかなか次の言葉がでてこない。元気なときのご様子が髣髴としてきて、まいってしまった。
 
「いつ死んでもいいなあ」。私は、子供二人がこの家を巣立ってから、心の中でそうつぶやくことが増えている。口に出したら、「何をいっているの。バチが当たりますよ」と叱られそうだから、あまり言わないようにはしているけれど・・・・。 どうしてこんなことを思うのか。つれづれ考えてみると、この足を引きずっての48年の人生に疲れているからではなかろうかと思い当たった。この人生、自分で言うのも、おこがましいけれど、よくがんばったし、もう十分だと思うからだ。麻痺のない右足が、麻痺している左足をかばって1.5倍がんばっているのと同じように、私の精神も人並み以上にがんばってきていて、私の年は、実年齢の50歳かける1.5倍の75歳だと思うのである。「負けるもんか、私は絶対に負けない」とくちびるをかみしめてきた分、疲れている。だって、75歳なら、死んでもおかしくはないでしょう。 75歳よりもっと高齢であっても、デイの利用者の方が亡くなられると、ほんの短い間のお付き合いであった私でさえ、やっぱり哀しい。ということは、私が死んだら、長い間一緒に暮らしてきた夫や息子たちはもっと哀しい思いをするだろうから、命がある限りは何とか生きるのが務めだ。 それでも生きるのはしんどいと、どうしても思ってしまう。そして「いつ死んでもいい。朝、目が覚めなくても、もう私は後悔しないのに」と心の中でつぶやいてしまうのだ。
 
家の中で、職場で、私はいつも計算して動いている、何の計算かというと、いかに動線を短くして物事をさばくかということ。動くことが億劫だ。歩くことが億劫だ。私ががんばって長生きしたとして、動くことがもっと億劫になったら、生きることはもっとしんどくなる。考えただけでも、ついため息が出る。 動けなくなったときに必要なもの、それは、お金、お金。改定された障害者自立支援法を知れば知るほど、そう思ってしまう。もっとしんどくなったときの私にとって、この法律は少しも優しくない。この日本で障害者が安らかに生きることは困難だ。
 
 
「年取ったら、一緒に旅行に行って、おいしいもの食べようね」と、健常者の友達は明るく言う。私は心の中でつぶやく。「ありがとう。でもね、私はもっと歩けなくなっていて、一緒について行けないって。おいしいもの食べて太ったら、もっと大変だし・・・」と。 私の老後には、楽しいものがなかなか見つからない。 体が不自由であっても、楽しいと思える生活を、気楽に想定できない日本は貧しい。しんどい人が、しんどい身体に鞭打って、しんどいと声高に訴えていかなければならない日本は、優しくない。 ああ、声高に訴えて、また、唇をかみ締めたから、疲れちゃった。心の底から長生きしたいと思いたいなあ。
 

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