柴田 多恵
「そよかぜのように街に出よう」より転載
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 私の病気であるポリオも、かかってから40年ぐらいたつと、「新たなる筋力低下、関節痛、筋肉痛、全身の疲労感、息切れ」などといった症状が、徐々に起きてくるということが分かってきた。「ポストポリオ」と呼ばれる二次後遺症である。この症状は、「老化」と区別がつきにくいため、60才を過ぎたら、「ポストポリオ」とは診断されない。ポリオの後遺症を持つ者の全員にこの症状が出るわけでもないのだが、40代の仕事盛りに、これらの症状が出て、がくっと衰えてくると、やはりしんどい。
 「無理をしない」。これが最良の予防法だ。しかし、この「無理をしない」ということ、簡単なようで実に難しい。特に私たちのような中途半端な障害者にとっては、いろいろな意味で、至難の業なのである。
 健常者の友達と一緒に旅行をすると、よくこんな場面に出くわす。
  「もう歩くのはしんどいから、タクシーに乗ろうよ」と友達。
  「賛成。私もしんどかったんだ」と私。
 でも、ふっと「私に気を使って、タクシーに乗ろうと言ってくれたのかな」という思いがよぎる。
 私は一才から一才半まで、普通に歩けていたそうだが、物心ついてからは健常者をしていないので、健常者の言う「しんどい」が、どの程度のことなのか分からない。肉体的条件が同じでないため、どの程度まで我慢して歩けば「しんどい」と弱音を吐いていいのか、どうしても分からない。「私は頑張りが足りないのかもしれない。横着なのかもしれない」と思うから、自分からはなかなか「しんどい」と言い出せない。だから、つい無理をしてしまう。
 私は今春まで二年間、職業安定所の障害者専門援助に嘱託として勤めていた。障害者の就職した会社を訪ね、障害者と雇用主、双方の不満や困っていることを聞き、労使双方の調整をする仕事だった。この仕事は「定着指導」と呼ばれていた。
 「頑張りの程度」に関して、障害者と健常者との間に食い違いが典型的に現れるのは、実はこの定着指導の時だった。障害者の方は精一杯頑張っていて、「もう限界だ。仕事のやり方を変えてもらうよう申し入れてみようか」と思うような状況であっても、雇用主のほうは、「よくやってもらっている。障害をお持ちなのに実に立派だ」という理解にとどまっていた。障害者の側は、「できない」ことを認めると、結局はクビになるのではという不安があるから、頑張ることをやめられない。でも、内心はつらくてしょうがない。こんな時、私は会社側に部署の変更などをお願いすると同時に、障害者のほうには「無理をしないで、できないことはできないと言いましょう」と説得したものだった。 仕事の場面では、友達同士の旅行のようにはいかない場合があるのである。「頑張り」をやめて、正直に「できない」と言った人が、うまくいくのかというと、決してそうではない。哀しいことに、雇用主から「障害者は障害に甘えているからな」なんて言われてしまう……という厳しい現実もあった。だから、自分一人ならともかく、人との関係においては、「無理をしない」ということは難しいことなのである。
 「頑張って障害を超えていて、何でもできる立派な障害者」というイメージを押し付けられていて、いまさら崩すわけにもいかない。周りのこれまでの期待を裏切っても悪いので、ついつい無理を重ねてしまう。でも、どうして自分たちばかり、健常者並みにと頑張らなくてはいけないのか。
  自分に正直になろう。できないことを悪いと思うから、できないと言えないのだ。できない自分を良しとすればいいのだ。社会の物差しを気にすることはない。自分を大事にして、こんな私をよろしくと言えばいいのだ。明日からやってやろうじゃんと、強く強く思う。
 一か月ほど前だったか……。いつもは階段を上がるのがおっくうで、本人たちに任せている子供部屋の掃除をした。次男の部屋に見たことのない作文集が転がっていた。「新ちゃんが泣いた」という映画のビデオを見た後の感想文を集めたものだった。足の悪い新ちゃんが、普通学校の中で苛められても負けないで、頑張るという話である。パラパラめくっていると、次男の作文があった。
 「このビデオを見ていると、ぼくは、辛くなりました。ぼくのお母さんも足が悪いからです。………新ちゃんは、足が悪いのにいろいろ頑張っていて偉いと思います。でも、しんどいだろうと思います。お母さんを見ていてそう思います」と。途中で字がかすんでしまった。
 障害者が無理をしないでも、この社会で認めてもらえますか!?「できないということ」通用しますか

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