柴田 多恵
「そよかぜのように街に出よう」より転載
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毎年、年の瀬が近づくと小包が届く。広島菜だ。受け取った私は大きな声で電話をする。「ありがとう。先生うれしいよ」と。
贈り主はH君。23年前の教え子だ。教え子というより、辛い時期を一緒に乗り切った同志といったほうがいいかもしれない。
大学を卒業して私が最初に赴任したのは、広島県立聾学校の高等部だった。一年A組の副担任になった。生徒は9人。その中の一人がH君だった。
大学で国語の免許はとったものの、聾教育について勉強したことはなかった。同期の同僚が、初めて接する聴覚障害者に戸惑うなか、幸いなことに(?)私は障害者だったから、生徒たちへの融けこみはとても速かった。ただ、聴覚障害者に対して、どのような方法で教えるのかということになるとお手上げで、手探りの日々が続いた。
  最初の授業のとき、手話を交え、OHPも使ったにもかかわらず、私の言わんとすることが生徒たちに伝わっているのかどうか、手ごたえがまるで感じられず、授業が終わった後、誰もいない校舎の片隅で、人知れず泣いたことは、今でも忘れられない。
  さて、H君。彼も入学当初泣いてばかりいた。彼は山間部の普通中学の難聴学級から、生まれて初めて親元から離れて、聾学校に入学して、寄宿舎生活を送っていたからである。友達でもできればいいのだが、手話を使うことができなかったため、いつも一人。重度のホームシックだった。
  授業中、突然泣き出し廊下に出て行くということもあった。自分の声が聞こえないからだが、幼児のように、大声をあげて泣く。そんなH君の頭や肩をなでてやりながら、「泣かない、泣かない」と励ましている私も今にも泣きそうだった。
5月の連休で帰省するまでは何とか辛抱してくれたが、連休が終わっても、学校に戻ってこない。ついに、主担任の先生と、実家まで迎えに行こうということになった。
  広い田んぼに囲まれた大きな農家だった。祖父、祖母、父、母、弟という6人家族だったが、おじいちゃんの権力は絶大で、主担任の先生が何をいっても、「この子の面倒は、わしがみる。牛飼いにさせる。もう帰ってくれ」の一点張りだった。お母さんが一言も話さず、お茶を入れてくださったこと、そして、話が終わって外に出たら、街灯などなく、本当に真っ暗闇だったことをよく覚えている。
  ところが、どうしたことか、一週間後、H君は学校に帰ってきた。私はH君と交わした「密約」が効を奏したのだと思った。約束どおり、H君と広島カープの試合を観にいった。彼は大喜びだった。
  しかし、本当に効き目があったのは、私が何気なくいった一言だったと、あとで主担任の先生が教えてくださった。「この子の面倒は、わしがみる」と言い張るおじいちゃんに、私は「おじいちゃんが死んだら、どうするんですか」とあっけらかんと問いただしたらしい。その一言がおじいちゃんにはこたえたのだそうだ。私自身は全く覚えていなかった。
  私の「若さ」が無遠慮な発言になったのだなと、今になって思う。少々老いも感じ、子育ても経験した今の私だったら、きっと言えなかったと思う。
8年前の震災後、神戸の須磨区に住む私の安否を気遣い、H君は電話をしてきてくれた。久しぶりだった。実家の近くのクリーニング工場に就職し、ずっと働いているという。時折電話をくれるようになり、懐かしくなったのか、神戸に行って先生に会いたいと言い出し、7年前、本当に来てくれた。嬉しい出来事だった。
  でも、新神戸駅で再会した彼の最初の一言は、とてもショックだった。ニヤリと笑って「先生、しわがあるわあ」。私はもう24歳ではなく、H君も17歳ではなく・・・・40歳と33歳のひげ面のおじさんだった。.
  おじいちゃんは、既になくなっていた。もっと優しい言い方もあったのに・・・・。おじいちゃん、あのときはごめんなさい。

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